桜の花が、零れんばかりに咲き誇る。 
 街中にある広い公園。仲良く遊具を囲んだり、広場で走り回ったりしている子どもたちや、散歩を楽しむお年寄りが卓を囲んで談笑している。その人たちの頭上にも、等しく桜の姿がある。 
 ただ桜が咲いているというだけで、見慣れた景色が違った表情を見せる。この季節にだけ広がり渡る光に溢れた景色、豪奢な春の衣の下を歩くようで、ユキの心は弾んだ。 
「きれいね」 
 手をつなぎ、隣を歩く京を見る。 
「ああ」 
 京は頷いた。目を細め、桜の花を見上げている。桜を愛でる、優しげな瞳をしていた。 
 そんな京を見て、ユキはほっとしたような気になった。 
 放課後すぐに、京に連れられこの公園にやってきた。 
『花見行かねえか』 
 学校の屋上から降りてきた階段で、あの時、京はそう言った。そう言ってから、窓の外を見た。ユキは少し気になった。純粋に花見をしたいと思っているような目ではない、と思ったのだ。あの時の京は遠くを見るような目をしていた。今までも見たことがある目だった。何か、ユキの知らないことを考えている。 
 また格闘のことか、何かなのだろうと思うものの…しかし何を考えているのかと強いて聞くつもりはユキにはなかった。 
 京には京の世界がある。それは去年に理解したことだった。その世界の中に立つ時、京はユキの存在をいとも簡単に頭の中から消してしまっている。 
 しかし、それでもいい、とユキは思うようになっていた。京のそういう心のありようを、静かに認め、受け入れている。それが、京が京らしく生きられる世界であるのなら。 
 それに…京は、本当にはユキのことを忘れはしない。 
 KOFが終了してから日本に戻ってくるまでの間、京は幾度も電話をユキにかけてきた。それがユキには嬉しかったし、帰ってきた京が自分を見つめてくる目が何も変わっていなかったことを、ユキは確かに実感している。ユキを愛しげに見つめる柔らかなまなざしも、温かな手も…。京は何も変わっていない。 
 京には京の世界がある…が、京は決して、自分を忘れはしない。 
 妙な自信と言えばそうだが、ユキはそう、信じることができた。 
「なんだ、ありゃ」 
 京の声でユキは我に返った。京の視線の先を追うと、一本の桜の木の枝に、ピンク色のキャンディボールがひっかかっているのが見えた。 
「子どもが遊んでたのかな?」 
 木の下に寄る。手を伸ばしたが、ボールは遥か高い枝に乗っていて、届かない。 
「取れなくなっちゃったんだ。誰のだろう…?」 
 ユキは周りを見渡すが、辺りに居る子どもたちは、それぞれの遊びに夢中になっている。ボールに関心を向けている者はいないようだった。 
「諦めて帰っちゃったのかな?」 
 京も手を伸ばしたが、上背のある彼でもボールには届かなかった。子どもにはどれほどの高さに見えるだろう。諦めてしまったのも無理はないのかもしれない。 
「取ってあげたいね…」 
 ユキは呟く。見てしまった以上、見ないふりはできなかった。 
「そうだな…まぁ、木を殴りゃあすぐ落ちてくるぜ」 
 そう言って京が簡単に拳を固めたのでユキは慌てた。 
「ダメよ、桜がかわいそう」 
 せっかくの花が散ってしまう。すでに足元には、ボールの持ち主がすでに試したのか、萼ごと落ちた桜の花が散らばっていた。京もそれに気付いたか、 
「じゃあそうだな…R.E.D.KicKで…いや、枝まで折っちまう。七拾五式で足だけひっかけりゃ…」 
 ユキにはよく分からないことをぶつぶつ言っている。 
「…私、やってみようかな?ねえ、やってみるわ。多分取れる。…持ってて」 
 言うが早いか、陸上部であるユキは京に学生鞄を押し付け、距離を取った。 
「おい、ムリすんなよ、結構高えぞ」 
 危なっかしいと見たのか京は言ったが、 
「できる!」 
 ユキは言い切った。ジャンプには自信があった。京が行った去年の夏、懸命に練習に打ち込み参加した陸上大会の時の写真は、今は努力の結晶としてユキの一番の宝物になっているのだ。 
 ボールに手を少し当てるだけでいい。難しいことじゃない──。 
 京の見守る中、呼吸を整え、ユキは駆け出した。走って、水鳥のように飛び上がる。 
 ぐんと花が近づいた。枝々の隙間から陽光が射し入り、色の薄いユキの虹彩をまともに貫く。が、ユキは怯まなかった。 
 指先がボールに触れた。ふわりと転がり、枝から離れた。 
「ほら…っ」 
 届いた! 
 疼く瞳でボールの落下地点まで確かめようとして体をひねった。自分の足元に何があるのかは見なかった。足の裏が何か固いものを踏みつけた。それは動き、ユキの着地点を不意にずらせた。そこにあった、拳ほどある石を踏んだのだ。ぐらりと身体が傾いた。 
「ユキ!」 
 京の声が聞こえた。視界が回転した。桜の花、そして青い空が視界に映った。 
 転ぶ!ユキは目をつむった。足首!せめて、足首だけは守らないと! 
 …が、ユキが予想していた固い地面に打ち付けられる衝撃は、来なかった。どん、という鈍い衝撃と共に、あたたかい温度に包まれる。 
「…ったく、後先見ねえっつーか…着地くらい考えろよ。ここはグラウンドじゃねえんだぜ?」 
 溜息交じりの声が聞こえた。京の目がすぐそばにあった。どんな速さで反応したのか、京が先回りして抱き止めてくれたのだ。 
「あ…やだ!」 
 ユキは真っ赤になった。自分が言い出したことなのに、京に助けられてしまった──というよりは、京の腕に横抱きにされていることに対して。鍛えられた京の胸、引き締まった両腕にしかと抱かれて、ユキはこれ以上ないほどに赤くなる。 
 その足元に、ボールがころころと転がってきた。 
「…」 
 一人の小さな子どもが自分たちを見つめていることに、ユキは気付いた。びっくりしたように立ち尽くして、物も言わず、ただ目を瞠って京のボールを見つめている。その身に余るほどの長い木の枝を持っている。 
「お前のか?」 
 子どもの目の色を察し、京は尋ねた。何度も子どもが頷くと、木の枝も一緒にぐらぐら揺れた。それを使って、落とすつもりでいたのだろう。 
「…ほら。気をつけろよ」 
 ゆっくりとボールを投げてやる。子どもは、ありがとう、とまだうまく回らない舌で言って、どこかへ走っていった。 
 その様を見送ってから、 
「さて…と」 
 京はユキを抱いたまま立ち上がった。 
「きょ、京?」 
 唐突に持ち上がった視点にユキは動転する。 
「なんで、下ろして!」 
 京の学生服を引っ張るが、京はびくともしない。 
「だって足滑らせたんだろ。何ともねえのか?」 
「それは…」 
 言われてから、ユキは恐る恐る足を曲げ伸ばしした。痛みは無い。 
「大丈夫。何ともないわ…」 
 京が助けてくれたおかげだとユキは思った。もしも京が間に合っていなかったら、どうなっていたのか分からない。 
「だから、下ろしてっ」 
 京の腕の中でもがく。 
「なんで」 
 京は聞き返す。どこか、ユキの反応を楽しんでいるような表情でいる。 
「なんでって」 
 公園で高々と抱きかかえられて、恥ずかしくない訳が無い。何よりも、京の腕の中にいるということが、それだけでユキを火のようにさせる。 
「いいから下ろして!京だって重いでしょ?早くっ」 
「軽いもんだよ。バーベルと比べりゃ」 
「全然軽そうに聞こえないわよ」 
「ダンベルって言やいいのか?」 
「もうっ!」 
「いてっ!」 
「下ろしてっ!私重くなんかないわ!」 
「自分で重いって言ったんだろ」 
 渋々、京はユキを下ろした。京の体温から解放され、赤い顔のままユキはセーラー服を必要以上にぱたぱたとはたく。 
「なんだよ、ひっくりかえってみっともねえ姿になるのを止めてやったんだぜ?」 
 不服そうに京は言った。ユキはきつく京を振り返る。ふるふると、羞恥に震える瞳で京を睨まえていたが、 
「…ごめん……ありがとう、京…」 
 そう、言葉を紡ぎ出す。 
「おう」 
 何でもないように京は答える。ユキは目を閉じ、熱くなった頬を押さえた。京の頬に赤みが射していたことには、気付かなかった。 
「ユキ、なんか飲むか?買ってくるけど」 
「え?」 
 いきなりなように言われ、ユキは顔を上げる。 
「お前昼休みに何かおごれって言っただろ?ほんとは、これでチャラだ…って言いてえトコだけど、買ってきてやるよ。何飲む?」 
「え…えっと…な、なんでもいい」 
「じゃ、待ってろ」 
 背中越しに手を振って、さっさと京は歩いていってしまった。残されたユキはなすすべもなく、とにかく、そこに腰を下ろした。 
 まだ、心臓がどきどき言っている。 
 自分の胸を抱きしめる。恥ずかしかった。まるで物語のお姫様のように京に抱っこされてしまったなんて──。 
 ユキは頬に両手を当てる。火のように熱い。動悸はなかなか治まらない。 
 心を落ち着かせようと、ユキは目を閉じた。きつく、目を瞑った。 
 柔らかな木漏れ日が、笑うように小さな乙女を包み込む。
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