29 「手を繋いで」



 花という花が、硝子に閉じ込められたようになっていく。
 夏の休日、突然の夕立に降られ、京とユキは通りの軒下に駆け込んだ。
「どうしよう?京?」
 言いながらユキはハンカチを取り出し、京の濡れた髪や腕を撫でてやる。
「すぐ止むだろ」
 休日の人ごみをすり抜け、街外れのここまでやってきた。通りは長い坂の上にあった。霧のように煙る街を見下ろし、こともなげに京は言う。
「そう?」
 ユキは空を見た。一面、鉛色の雲に覆われている。その激しい雨音は耳ではなく頭に直接響いてくる。
「ああ」
 京の答えは変らなかった。
 ユキの頬がわずかにふくれた。足先に目をやって、もじもじとさせる。
 天気予報は雨だなんて言ってなかったのに。
 白いミュールも、アクアマリンのアンクレットも、今日に初めて足を通したのに。
 透き通る肌を飾るそれらは、砂利と雨に汚れていた。
 ただしそれをぼやいたとしても、この恋人は耳を貸しもしないだろう。
「なんだそんなもん、拭けばいいじゃねえか」
 そんなふうに、薄情に言うに決まってる。
 ユキはそっとため息をついて、もう一度京を見た。
 京は、空を見ていた。その黒い瞳は、空に向かって、何かを期待しているように見えた。
「何か待ってるの?」
 ユキは尋ねた。
「ん?ああ…」
 変わらず京は空を見ている。ユキは、空を見上げた。
 雲の隙間に青空が覗いた。それと見る間に雲の色が薄まり、雨がどこかへ去っていく。日が射し始めた。雲が輝く。鮮やかな虹が空に架かった。
「へへっ」
 京は笑った。
「ほら、こういうのがあっから夏っていいよなぁ」
 子供のような笑顔で、ユキに向かって笑いかける。
 太陽のようなその笑顔に、不機嫌でいることも忘れてしまって、ユキはこくりと頷いた。
 遥か東、橙に煙る夏雲の姿。光の浮橋は夢のように、空の中に浮かんでいる。
 この時限りの。その、輝き。
 そっと、ユキは右手を彷徨わせた。京の手を捜す。京の温度に触れたかった。京がそこにいることを感じたかった。
 手が触れ合う。京は強くユキの手を握った。京もユキを捜していた。目を見交わして、二人は微笑う。
 声もなく、空のうつろいを見つめ続ける。ただ、指と指とを絡めて。
 京とユキは、ずっと見ていた。




(「30」へ続く)

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