32 「好きと愛してる」



 先ほどの大雨が嘘だったように、眩い青空が広がっている。
 雲は夏空の色と傾きつつある太陽の光を映し、薄青に、金に、輝いていた。
 空からは雨のあとは去ったが、地上にはまだ水の匂いが十分に残っている。街路樹から零れた雫が、真下を歩くユキの髪を濡らそうとした──と、隣から伸びた長い手指がユキの頭上を払う真似をした。白い蒸気が小さく昇る。
「?」
 奇妙な物音にユキは顔を上げたが、すでにそこには空とビルの街並みしか見えない。
「どうかしたか?」
 ユキの隣を歩いている京が何食わぬ顔で言う。
「ううん…なんでもない」
「ふん。それよりさ…」
 何事も無かったように京は先ほどまでユキと交わしていた他愛ない会話に戻っていく。さりげなく、ユキを街路樹から離れた位置に誘導しながら。
 坂から街へ、そして駅へと、京とユキは来た道を戻っている。
 その道すがら、京とユキは殆ど絶え間なく言葉を交わし続けていた。駅へ続く交差点の赤信号に足を止めても、京はユキを見、ユキは京を見つめ、二人は声を上げて笑い合う。
 横断歩道の前は混み合っていた。後列にいる京たちは具合よくビルの日陰に入れていたが、信号を待つ人々にはきつい陽射しが照り付けている。ビルのガラスに反射する光が、きらきらとユキの目を騒がせる。
 その夏の光に引き起こされたように、ふと、ユキの心がさわだった。
 この夏に京と会えるのは、今日が最後。
 この交差点を渡って、電車に乗ってしまったら…京といられる最後の一日が終わってしまう。
 相変わらず幸せそうに笑いながら、そんなことを思っている。
『KOFに出るんだ。今年も』
 そう京に告げられたのは夏が来てしばらくになってからのことだった。
 KOF。世界一の強者を決める世界規模の格闘大会。毎年夏に開催されるその大会に今までにも幾度か京は戦友の紅丸、大門と出場し、その度に優勝してきた。大会中、選手たちは各国ごとに用意された会場への移動を繰り返す。京に会うことはできない。去年もそうだった。
 しかしユキは別に驚きはしなかった。多分今年もそうなんだろう、と、漠然と思っていた。
「うん…行って、らっしゃい」
 そう言った。
「いいのかよ?」
 京は意外という顔をした。激しく衝突した去年のことを思っていたのかもしれない。
 それでもユキは頷いた。
「うん」
「…悪い」
「ううん」
 それだけ、だった。話はそれだけで終わってしまった。それからは京もユキも黙り込み、言葉を重ねようとはしなかった。以後今日まで、京とユキの間でKOFの話は一度も出なかった。
 しかし、それで十分だった。去年のことがあった。言いたい言葉、伝えたい気持ちはあの時に全てといっていいほどぶつけあった。ことさら言葉を募ったところで、何になるだろう。
 ユキは京に京らしくあってほしいと思うようになっている。それは去年とは違った心の置き方だと、ユキ自身も思っている。
 単純な、京が好きだ、という気持ちとは違う。
 去年は、ただ怖かった。傷だらけのまま格闘の世界へ出ていこうとする京のことが理解できず、心配で、その上に離れている間、彼に忘れられてしまうのではないかと不安でたまらなかった。
 今は違う。京の身に対しての心配だけは消えないが、以前のような孤独感は感じない。
 京を見守っていたかった。戦いたいという京の思いを受け入れて…尊重して。離れていても、心はそばにある。ユキはそう思える。京と過ごした今までの時間が、確かにそう思わせてくれる。KOFへ赴き、己の強さを確かめるのが京の望みだと言うのなら、黙って送り出してやるつもりだった。それが、何もできない自分が京のためにできることだと…。
 去年の今頃に京は世界へ飛び立って行った。今年の夏に会えるのは今日が最後なのだとしても、いつもと同じように過ごしたかった。必ず、再び会うのだから。京は帰ってくるのだから…。
 知らず、ユキは京を見つめていた。視線に気づき、京はユキを見た。その表情が変わる。ユキのまなざし、瞳に浮かぶ深い色。ユキが何を思っているのか悟ったのだ。
 青信号が点滅した。人の波が動き出す。
「ユキ…」
 京がそっと、ユキに手を伸ばそうとした…その時。
 人ごみから現れた華奢な影が、京の右腕にぶつかっていった。
「!」
 京はすぐに顔を向けた。
「ごめんなさい」
 謝るにしては落ち着いた声で、その十三、四歳ほどの亜麻色の髪の少年はまるで水の過ぎ行くように人々の中に消えていく。京の腕にぶつかり過ぎ去っていくまでのほんの短い間、海外の人間らしい青い瞳は、じっと、ユキだけを見据えていた。
「なんだ、あいつ…」
 不審そうに京は呟いた。あんな子どもに接近を許したのが信じられない、というように。
 一方、ユキは目をこすった。
 視線が合った少年の瞳が、一瞬、光ったように見えたのだ。まるで鬼灯のように、赤く。
 気のせいだと、思ったが。
 足を止めた京たちの後ろで人の流れが停滞し、慌てて京とユキは歩き出す。
「京」
 まだ納得がいかないように何か考えている目をしている京に、ユキは話しかけた。ユキは少年のことは気に留めていない。
「悪い、なんて思わないでね?」
「え?」
「KOFに行くこと。私なら大丈夫だから。今年は大変なの。最後の陸上大会だし、受験勉強もあるから。だから、京は京だけのことに集中して…」
 京が何を思っているのか、彼が信号前で見せた目でユキは理解していた。だからそう言った。京には何も気にしないで行ってほしかった。一人でも大丈夫だと伝えたかった。
 京は表情を動かさずにユキの言葉を聞いていた。目を見開き、息を詰めて。
「ああ…」
 ゆっくりと頷く。俯いた目元が前髪で隠れ、よく見えない。どうかしたの、と、その目をユキが覗き込もうとした時。
「分かった」
 京は顔を上げた。そこには何の影も無かった。
「行ってくるぜ、ユキ…」
 強い意志に瞳を輝かせながら、京は言った。力強いその表情に安心して、ユキは頷く。自分にできる、一番の笑顔で。
 その花のような笑顔を京は深いまなざしで見つめていたが…ふいに、顔を背けた。
「それにしても…ユキ」
「ん?」
「そっか。受験すんのか」
 からりとした声だった。どこかおどけているような、まるで、何も考えていないかのような。
「え──?すんのか、じゃないわよ」
 ユキは思わず眉根を上げた。京を気遣うつもりで言った言葉にせよ、受験するつもりでいるのは本当なのだ。そうあっさりと言われてしまうと、受験生のメンタルとして腹が立つ。
「いいなぁ、京は呑気で…。今、草薙センパイって高校何年生なんでしたっけ?」
 今日何度目かの溜息をつきつつ、そう言った。
「さぁ…どうだったかな」
 京の答えはそっけなかった。どうしようもない、と言うようにユキは首を落とし、それから、笑う。京も笑っていた。まっすぐに、ユキの瞳を見つめながら。
 夏の陽がゆるやかに、西の空へと沈んでいく。
「…ユキ」
 京はユキを抱き寄せた。腰に深く左手を回して、ユキの身体を近づける。
「京?」
 身体と身体が密着した形になって、ユキは慌てた。
「いや、その、さ…」
 京は何か言いたげに視線をさ迷わせていたが、空いている右手でユキの前髪をかき上げ、白い額に、口付けを落とした。
「今日はこのまま、歩こうぜ」
 かすれた声でそう言った。唇も、手も、ユキの頬にかかる息まで熱かった。
 ユキは頬を染めた。そのセピア色の瞳が、かすかに潤む。
 もう少し。一緒にいよう。
「…うん」
 京の言葉にユキはゆっくりと頷いて、京の身体に寄り添った。




(「33」へ続く)

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