〜 星降 〜





…■ 第一話 ■…


 とんとんとん。
 軽やかな包丁の音が、厨に響いていた。
 金色の髪を持った一人の娘が、土間に立ち、青菜を刻んでいる。
 誰かのために料理しているのだろう、滝のように豊かな髪から覗く青い瞳は、いかにも楽しげだった。
 慣れた手つきで娘…雪は、刻んだものを鍋の中へ落とした。じわあ、と暖かな湯気が鍋から立ち上る。もう一度火の具合を見ようとしてか、雪は腰を屈めた。
 と、おもむろに、開けたままでいる裏木戸を振り返った。
 ぴゃっ。
 同時に、何かが啼いた。影のように真っ黒い何かが、素早く飛びすさったのを雪は見逃さなかった。
 火を確かめてから、裏へ回る。
「あら」
 夏の爽やかな風が吹く中、珍しいものを見つけたように雪の青い目が細まった。
 山より切り出し、積み乾かしている薪の頂上で、黒いものがじたばたとしている。作りかけの飴細工のようにぐにゃぐにゃした腕が、薪の山をまさぐり手がかりをどうにか探そうとしていた。
 角盥からにゅっと手足が突き出たような、それの姿だった。
 雪はその姿に見覚えがあった。
 そっと、薪の一角に手をかける。
「驚かせて、ごめんなさいね」
 優しく、声をかけた。のたうつミミズのようにもがいていた小さな土ふまずが、ぎくっと、空中で静止する。
「さあ、怖がらなくていいから、降りてらっしゃいな」
 そう言って、白い腕を、娘はゆっくりと伸ばした。





 ぱしゃんと大きく、魚が跳ねた。流れる川面に、波紋が広がる。
 透明な流れに足を浸し、釣り糸を垂らしていたその少年は、ふと空を見上げた。
 木々の向こうには目に痛いような青空と、真白な雲が立ち上がっている。
 夏が、来ている。
 風が、少年の漆黒の髪を撫でていく。
 あの地獄門騒動から、いくつの月が過ぎたのだろう。
 空の彼方を探すかのような目をして、少年は青空に見入っている。
 地獄門。生者の世界、現世と、死者の世界の常世との境を隔てる門。
 生死の秩序を保つあの門が、ある男によって暴かれてから暫くも経たない。そして、数々の災禍の元凶となったその男を倒しても、門は変わらず、あの暗黒の口を大空に開いたままでいた。
 あのままでは置けない。どうすれば閉じることができるのか。
 深く、少年は思案に耽る。目線は水面に落ちていた。
 少年は、地獄門の封印を守る四神の一人、青龍としての力を、彼の師匠であった慨世より受け継いでいる。その使命に対しての責任が、生真面目な気質のこの少年を、重い思索へ導いていく。
 どうすればいいのか。師匠から受け継いだ、この力で…。
「楓」
 名を呼ばれて、少年は振り返った。
 朝日のような金色の髪が、眩しく輝いている。少年の義姉である雪が、黄金のような髪を惜しげも無く晒して太陽の下に立っていた。
「楓、あなたにお客様が来てるわよ」
 そう雪は言った。降り注ぐ陽を受けて、その青い目が湖のように光っている。
「お客様?だれ?」
 竿をしまいながら、楓は聞く。楓たちが住んでいる屋敷は、澄んだ川の近く、山の奥深くにある。楓たちを育てた師、慨世が遺した家だった。楓も雪も、そしてもう一人の義兄弟、長兄である御名方守矢も、その家で育った。
 養父慨世が逝去して兄弟たちが離散してから、長く無人になっていた家だった。今でこそ楓と雪が戻ってきて住まっているが、そのことを知っている人間ですら、ごく限られたものとなっている。
「老師かな」
 楓はまっさきにそう思った。四神の一人、玄武の守護神で、楓も一時期、師事したことがある。
 地獄門について、どうすればいいか教えに来てくれたのかも。
 やや都合の良い考えが浮かんだが、雪は首を横に振った。
「きっと、会えばすぐに分かるわ。楓も、多分知ってる…人?とは言わないわね、あの子は…」
「?」
 難しそうに眉をしかめる雪と一緒に、楓は首を傾げた。





 客間に使っている八畳間を、静かに楓は押し開いた。
 床の間には掛け軸、そして雪が生けた季節の花が飾られている。僅かに開いた障子から日の光が射し込んできており、畳に淡い模様が浮かんでいる。
 しかしそこに、客人らしき人影は無かった。座布団が一つ、寂しげに残されているだけだ。
「あら、いない?」
 遅れてやってきた雪が、楓の横から顔を出した。座布団には、座った痕跡すら見られなかった。
 怪訝に思い、楓は足を踏み出した。
 その時、がさっと、光の方向から物音が聞こえた。姉弟たちは同時に顔を向けた。
「?」
 廊下へ出て、庭を見回した。青い楓の木に、ふと目を留める。
 楓は口を、ぽかんと開けた。雪を振り返る。
「姉さん、お客さまって、あの子のこと?」
 楓の見つけたそれの姿を見留め、雪は頷く。
「そうよ。遠いところを、一人で旅してきたのよ。楓にね、用があるんですって」
「僕に…?」
 とん、と裸足のまま、楓は中庭へ降りる。木の下に立った。
 ぴょこんと、その者が降りてくる。
 それの背丈は、楓の膝ばかりまで。全身が影のように黒い。角のようなしっぽのような長い突起が、完全な円を描いた身体の南北に二つずつ伸びていた。細く長い朱色の腕、五本の指が揃った手には、書簡らしい白いものを握っている。
 つぶらな漆黒の瞳が、楓をじっと見上げている。楓は、呟いた。
「あかりちゃんと、よく一緒にいる…妖怪…?」
 それの姿は、よく見知っていた。楓と多少ならず付き合いのある、一条家の末娘が連れ歩いているもののけだった。付喪神と呼ばれるものなのだろうが、詳しいことは楓には分からない。
「なべみちゃん、って言うんですって。あかりちゃんからの手紙を持ってきたって」
 雪が言う。こくこくと、その、異形のものは頷いた。長いとは言えない足を懸命に伸びさせ、楓に書簡を差しだそうとしている。
 予想もしていなかった来訪者に唖然としながらも、楓は屈んでそれを受け取った。
「あかりちゃんから…?」
 思わず呟く。京阪にあるあかりの生家、一条家は、古くより四神の補佐を務めてきた神官の家系だった。地獄門騒動の時にも、楓は多く世話になった。
 一条の家で、何かあったのだろうか。自分に用があるとは…。
 キィキィと、なべみが高く鳴いた。早く読めということなのだろう。楓はそれに従い、手紙を開いた。
 墨の香りが匂やかに立つ。多少癖があるが字の形が大きい、明朗な筆跡だった。いかにもあかりらしい伸びやかな筆だ。
「何が書いてあるの?」
 しゃがみこんだ雪が、なべみを撫でてやりながら聞いた。
「お祭があるんだって」
 楓は言った。
「文月の六日から七日に。年に一度の星祭りなんだって。ぜひ僕と姉さんに来て欲しい、って」
 雪は目を上げた。
「星祭…?ああ、もうすぐ七夕だものね。一条家は星を祀る家でもあるもの。そういえば、小さい時に一度、みんなで師匠に連れていってもらったことがあったわよね、その一条のお祭に…」
「え? そんなことあったっけ?」
 楓は思わず尋ねた。雪のほうは、驚いたように楓を見た。
「覚えていないの?お面が欲しい欲しいって言って、私たちを困らせたのは誰だったかしら」
「そうだったかな…?」
 楓は首をかしげた。記憶の糸を手繰り寄せようと、腕を組む。
 そういえばそんなことがあったような気がする。まだ家族が全員揃っていた頃だった。皆で仲良く、連れ立って。
 楓は薄く、目を開いた。何の憂いも無く、幸せに暮していた頃を思い出したのだ。姉の隣に義兄がいて、後ろに暖かな師匠の姿があった日のことを。
 楓の視線が宙をさまよう。もう決して戻っては来ない、あの懐かしい日々の感傷にうたれている。
 くい、と楓は、袖を引っ張られた。見てみると、なべみが所在なげな顔つきで、楓を見上げている。
 返事を待っているようだった。楓は我に返る。
「そう…だね、それじゃ、お邪魔させてもらおうかな。ねえ、姉さん」
 せっかく誘ってくれているものを、断る理由も無かった。数日留守にすることになるが、問題が起るとは思えない。楓の言葉になべみが嬉しそうに飛び跳ね、くるりと器用に、宙返りをした。
 楓は雪を見た。すぐに明るく頷いて、準備を始めてくれると思った。
 が、雪はゆっくりと、首を横に振った。
「楓、私は、行かないわ。一条の人たちには、悪いけれど…」
「姉さん?」
 思わぬ言葉に、楓は聞き返した。姉を見つめても、雪は物言わぬ氷のようになって、じっと動かない。
「どうして?」
 言いかけて楓は気付いた。雪の、金色の髪と青い瞳。海向こうの人間を親に持つ雪は、その容貌のために人の群がる場所には余程のことが無い限り近寄らない。異人討つべしという攘夷思想が病のように蔓延している今の世では、祭という、多数の人が集う場所に立ち入ることは危険ですらあるのだ。
「………」
 楓の胸が傷む。姉は己が傷つくことを恐れたりはしないが、己のために誰かが傷つくことを何よりも厭う。子どもの頃に一家全員で諸国放浪の長い旅に出たことがあったが、その旅路でもそういった難儀を被ったことが少なくなかった。雪は何か災難に遭った時に一緒にいる楓を巻き込んでしまうのが嫌なのだ。
 けれど、と楓は思った。雪の風貌がどうであろうと、時勢がどうであろうと、楓にとって雪がただ一人の姉と呼べる人であることに変わりは無い。
「姉さん、行こうよ。確かに世の中は騒がしいけど、頭巾を被ればいいじゃないか。せっかくあかりちゃんが手紙をくれたのに」
「いいえ」
 雪はあくまで頑なだった。こうと決めると己を曲げない姉の強情さを楓はよく知っているが、引くこともしたくはなかった。
「そんな、もし面倒が起こっても、僕がいるよ。何があってもきっと大丈夫だから」
 楓は言葉を尽くす。世の流れのために思うように行動できないなんて、悲しすぎる。
「楓」
 弟の心中を察して、雪は、まなざしを和らげた。
「あなたの気持ちはとても嬉しいわ。けれど、もしも、ということもあるでしょう?一年に一度のお祭りで、そんな騒ぎを起こさせるのは」
「姉さん、そんな…」
 楓は言葉を詰まらせる。世の風潮に対する悔しさが込み上げる。髪や目の色が違っても、同じ人であるのに。
 黙ってしまった楓に、雪は元気づけるように笑いかけた。
「そんな顔をしないで、楓。楽しんでいらっしゃい。あかりちゃんと一緒にいたら、気持ちもきっと晴れるわよ」
「…?」
 どういうこと、という顔を楓はした。
「楓、あなたはずっと何かを悩んでいるじゃない?眉を難しくさせていることが多いわよ」
 楓は眉間を押さえた。その動作はどこか幼い。雪は微笑みつつ、言った。
「地獄門のことを考えているのじゃない?」
 正鵠を射られ、楓は俯く。
「…うん」
 頬を紅潮させた。姉には、見抜かれていた。毎日毎日、地獄門についてあれこれと考えあぐねていることに。心がいつまでも、晴れないでいることに。
「自分の使命について考えるのはとても大事なことだけど、それだけじゃ疲れてしまうわよ。家でじっとしているだけじゃなくて、たまには外へ出ていらっしゃい。あかりちゃんもそんなふうに思って、お手紙をくれたのじゃないかしら」
 言われて、楓はあかりのことを思い出す。小鳥のように自由で活発な一条の末娘は、言うなれば野分の中の風車だった。どこまでもからからと賑やかで、止まるということを微塵も知らない。そばにいるだけで明るい気持ちになれるような、そんな少女だった。
「私のことはいいから、ね」
「…本当に?そうなの?」
 楓の言葉に、雪は頷く。
「ええ」
 それ以上、楓は口を開く気にはなれなかった。
「…うん」
 楓は短く頷いた。姉弟の間でおろおろしていた、なべみの前にしゃがみこむ。
「じゃあ、僕だけで行かせてもらうからね。あかりちゃんに、そう伝えてくれるかい?」
 なべみはこくこくと、身体を前後に振って全身で頷く。ふと、楓は思いつく。
「あ、手紙の返事があったほうがいいかな…」
 辺りを見回したが、近頃外出した覚えも無いので筆も墨もすっかり、乾いてしまっている。
「どうしよう…。…あ、そうだ」
 楓は顔を上げ、頭上に手を伸ばした。楓の木の、透き通るような青く細い枝を一本、手折る。
「これでいいかな」
 言って、楓はなべみに枝を手渡した。枝を手に取り、なべみはぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「まあ、楓ったら、そんな心遣いができるようになったのね?」
 雪が笑った。楓は途端に面映ゆくなる。なべみに伝えてもらうだけでなく、返答の証があったほうがあの末娘が喜んでくれるような気がしたからだったが、姉にそんなふうに言われてしまうと、何やら恥ずかしいような気になってくる。
「でもあかりちゃんって、やっぱり凄いね」
 僅かに声が大きくなっていることも知らず、楓は言った。
「だって妖怪を、友達にしちゃうんだから。お使いにまでしてさ」
 その言葉に、なべみが目を上げた。口に楓の枝をくわえ、顔の裏側を掻くような仕草をした。腕を振り回している。何か、言いたいようだった。
「何だろ」
 一人で手を上下させ、楓からの小枝を振り回す。楓は雪を見る。雪は首をかしげた。
 なべみの動作は、なおも続いた。なべみの右手が空を掴み、開かれた左手の上に見えない砂をかけるように、ぱっと開かれる。左手を顔の上にさしあげ、粉薬を飲むような仕草で、真っ赤な口を開いた。
「あ、分ったわ」
 雪が声を上げる。
「お使いが無事に終わったら、あかりちゃんがお菓子をくれるのね?」
 嬉しそうに、なべみが飛び跳ねる。どうやら、正解のようだった。
「ははっ、あかりちゃんらしいや」
 声を上げ、楓は笑う。なべみは照れるように身体をくねらせていたが、兎が跳びはねるようにして、姉弟たちの前から去っていった。手に、しっかりと若木を持って。
「さあ、早速準備をしなくちゃね。六日はもう、すぐだもの」
 なべみの姿が緑陰に紛れていってから、雪は言った。楓は頷きかけ、
「ねえ、姉さん」
 呼びかけた。
「なあに?」
 姉は振り向く。
「星祭ってさ、星に願いをかけるんだよね。姉さんだったら何をお願いするの?僕かわりにお願いしてこようか」
 一人この家に残る姉が不憫に思え、楓は何気なくそう言った。
「そうね…」
 雪は、細い顎に指をやって考え込んだ。その目は遠くを泳いでいた。
 あっと、楓は心の中で思った。
 姉が願いそうなことを、楓は分かっているつもりだった。
 義兄との再会。家族の暮らしを取り戻す。
 決して口には出さないが、姉ならそう思うだろうと、楓には妙な確信がある。それは日々の暮らしの中で楓自身も思っていることでもあった。例えば、広すぎる家や、がらんとした道場。いつまでも高い場所に据えられたままの竹刀や、毎日の食器がどうしても二つ余ってしまうことなどに。
 きっと姉は、義兄弟たちと離れてしまったときから、それだけを願っているのだろう。
 だが、雪は長いまつげを伏せながら、それでも微笑んでいた。
「その夜」
 呟く。
「その夜、よく、星が見えますように」
「ええっ?」
 楓は拍子が抜けたように言った。
「姉さん、そんなことでいいの?」
 楓の言葉に、こともなげに雪は頷く。
「ええ。だってそうしたら、願いごとも、雲に邪魔されないで星まで届くと思わない?」
「姉さん」
 楓は言った。姉の瞳は透明だった。悲しいような気持ちになる。その心中を慮れるだけに、なお苦しい。口にも出せない。言っても、姉が悲しむだけだ。
「楓の願いが届くといいわね」
 雪は言う。
「うん」
 楓は頷いた。
 雪は笑って、先に家の中に入って行く。
 一人残された楓は、先ほど自分が手折った若木を見上げた。白い樹液が粟粒ほどに膨らみ、垂れかかっている。楓は、いたわるようにその箇所を手の中に握り込んだ。
 七夕は、人が星に願いをかける日。
 それなら、どうか。
 姉さんをどうか、幸せにしてください。
 楓はそう、願った。
 自分のことより、家族のことを先に思う、たった一人の姉に。
 幸せになってほしいと、楓は思った。
 楓が枝から手を外した時には、雫は、止まっていた。





〜 続(第二話) 〜




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