降る、蝉時雨。
七夕の日はすぐに近づいてきた。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
義姉の見送りを背に受けて、楓が家を発つ暫く前のこと。
「いーやーあー!!」
京阪にある一条家では、末娘の絶叫が屋敷内に響き渡っていた。
星祭りが目前に迫った、一条家の誰もが忙しかった。それでも何が起こったかと、姉のひかりは裾を握って妹の部屋に駆けつけた。
「あかり、あかりどないしたん?」
息せききって、障子から顔を出す。
六畳に切り取られたあかりの部屋には、ところ狭しと彼女の趣味の品々が散らばっている。ぶ厚い異国の言葉の辞書、佳い音の鳴る鈴、何処かで手に入れてきたらしい、はぁもにかという異国の楽器。そこは主人の趣味を映した賑やかそのものの間なのであったが、しかしひかりの目にすぐ入ったのは、ひかりの弟、あかりにとっては一つ違いの兄である道磨が、あかりに両足で踏みつけにされている姿だった。
「道磨?!あ、あかり!」
驚いてひかりはあかりに取り付き、兄から離そうとする。
「あかり、何してんの、やめなさい!」
「あ、おねいちゃん。構わんとって、おにいちゃんが悪いねんから!」
兄を下敷きにしたままあかりは憎憎しげに言う。道磨の悲痛な悲鳴があがる。
「やめってば…あかり!」
ひかりは必死に妹の肩にとりつき、とにかく弟の背から引き下ろした。妹の折檻から解放された道磨は、そのまま畳に伸びてしまう。
「あかり、無茶なことしぃな!道磨、大丈夫?」
ひかりは道磨の背をさすった。低いうめき声が聞こえてくる。
「うう…だ、だいじょうぶ、ねえちゃん」
「おねいちゃん、構わんでええねんそんなんに!おにいちゃんが悪いねんもん!」
すっかり興奮している様子のあかりは、昂然とそう言い放つ。
「道磨が悪いて、何があったん」
「これ!」
あかりは訴えるように叫び、部屋にあった己の文机を指差した。
そこには読みかけの書と、ガラス製の、底の深い丸皿が置かれてある。本来は菓子入れにでも使うべきものなのだろうが、あかりは花器として使っているようだった。水の張られたその面には、ひともとの青い楓の枝が、新しい露に濡れていた。一枚の葉が机の上に落ちている。
あかりはその葉を指差していた。
「せっかく楓はんがくれはったこの枝、おにいちゃんが葉っぱちぎったんや!ウチぜったい許さへんー!」
うつぶせになった道磨にまた飛びかかり、襟首を掴んでがくがくと揺する。
「あかり、やめえって!道磨、ほんまにそんなんしたん?」
「してへん、せえへん!」
かん高く道磨は叫んで、両手を畳について半身を起こし、その勢いで妹を跳ね飛ばした。鞠のようにあかりは転がる。
「ちょう枝持っただけや、ウチん家やこのへんにある楓の葉っぱとは姿がちゃうさかい、珍しいよう見よう思てさわっただけや、そんな誰がちぎるかいな!」
「何いらんことしてんねんな、ウチ、大事に、大事にしとったのにー!楓はんが来ぃはった時ウチどないな顔して会うたらええんよー!」
「だいぶ日ぃ経っとったやろが、落ちるのも無理ないっちゅうねん!」
「何やその言い方、とにかくウチに、ううん楓はんに謝りぃやー!」
とめどない弟妹の言い争いに、ひかりは半ばついていけないようであったが、
「ちょう、ちょう、とにかく落ち着きなさい、あかり、道磨」
言って、再びとっくみあいにでもなろうとする二人を、苦心しながらも強引に前に座らせる。
「けんかはやめなさい、星祭りの前やで。これから星にお祈りするゆうときに、その神社の子ぉらがいさかい起こしてどないするんよ」
ひかりは強いて落ち着いた様子を見せて、弟妹たちを滔々と諭す。
「あかりもね、楓さんから頂いた枝が弱ってしもて悲しいんは分かるけど、お兄ちゃんに悪気があったわけちゃうゆうんは分かるでしょ?楓さんかて、自分のおくったもんが元で兄弟ゲンカしたなんて聞いたらきっと困りはるで。お父ちゃんもお母ちゃんも、楓さんが来ぃはるん待ってはるみたいやねんから、みんなで楽しぃ気持ちで楓はんをお迎えせんと。あかりも楓さんに見てもらお思て、一所懸命お神楽練習しとるんでしょ?」
姉に言われても、あかりは暫く服さざる様子でいたが、常には見ぬ厳しい表情の姉の顔を見て、
「うん…」
素直に頷いた。心中、姉を困らせてしまったことを恥じているようだった。
「ごめんなさいおねいちゃ」
「ねえちゃん、もうええて。面倒かけた」
あかりが言い終わらないうち、神妙な顔つきで道磨が言う。あかりはがばと顔を上げた。
「おにいちゃんせっかくウチが言おうと…!」
「何じゃ文句あるんか…!」
腕と手をぶつけて再びやりおうとする二人を、
「こっほん!」
大きく咳払いをして、ひかりは押しとどめた。
菫色になずんだ空を、塒へ戻る鳥たちが横切っていく。
六日の夕暮れ時、楓は、多くの人々と共に一条神社の鳥居を潜った。一条家の星祭りは六日の夜から、翌日の七日を通して行われる。
空にはすでに、今宵の主役である星の瞬きが息づきはじめていた。境内の奥から太鼓の音や、横笛の調子が流れてきている。祭は始まっているようだった。
晴れてよかった。
故山に留守居している義姉のことを思いながら、楓は紫色に染まった空を見上げていた。
「おうっ、楓!よう来たのぅ!」
突然、大きな声が後ろから響き、遠慮なく背を叩かれた。
痺れた背をさすりながら振り返り、楓は己が思っていたよりも高い場所に目線を上げた。
五尺八寸ある楓よりもなお、上背がある。熊にも似た体躯の大男が、楓を見下ろし立っていた。
「十三さん」
一条家の居候、もとい、あかりの目付役の神崎十三だった。並外れて大柄な見た目を裏切らず、十三は磊落に笑う。
「おう、久しぶりやな!元気やったか?ちょっと来るんが遅かったのう、祭始まってしもたで。お嬢も首長うして待っとったのに」
気さくな口ぶりで言ってくる。地獄門騒動があってから、すでに楓とは顔見知りだった。
「あかりちゃんが?」
楓が聞き返すと、十三は頷いた。
「今は神殿に入ってもうてるから、いくら楓でも会わせられへんけどな。お嬢に、もし自分がおらん時にオドレが着いたら、自分が出てくるまで祭を案内しとったってくれて言われとったんや」
「そうなんですか…。もう少し急げば良かった」
久々に山から下りたので、世の中の様子を見るかたわら、急ぐでもなくゆったりと足を進めていたのだ。しかし、そうした自分ののんびりを、今更ながら楓は悔いた。
「まあまあ、しゃあないがな。それより、遠くからよう来てくれたな、楓。ワシの案内じゃ味気ないかもしれんけど、まぁよろしゅうしたってんか」
改めて礼をする十三に、楓は慌てて頭を下げた。
「そうや、もう少ししたらな、神殿のほうでお神楽始まんねん。お嬢やみんなの晴れの舞台や、楓も見たってえな」
言うが早いか、十三はさっさと歩き始める。楓は慌てて、その後を追いかけた。広い境内には様々な露店が立ち並び、晴れ着を纏った多くの人々が、笑顔でそれらを楽しんでいる。五色の短冊を手にした子どもたちが、青笹の周りににぎにぎにしく集っている姿も見受けられた。
祭りなのか。
今更のように楓は思った。暮れかかった空の色、零れ聞こえてくる神楽の調。それを楽しみ集まってくる、市井の人々の佇まい。
楓は静かに微笑んで、足を踏み出した。
黄昏が落ち、境内に連なる提灯に紅く炎が灯され始めた。
本殿に多くの人が集まっている。一条家の神楽舞を見物しようという人たちだろう。人だかりの後ろに楓たちは立った。
神楽の拍子が長く高く、続いている。純白と真紅の衣装に身を包んだ三人の巫女が、鈴をかざして舞っていた。
その中の一人があかりであった。他に二人、あかりと年恰好の似た少女たちが、あかりの動きに沿うようなかたちで懸命に神楽を舞っている。他の少女たちとともに、あかりは、楓が知っていたいつもの狩衣姿ではなく、赤い袴をつけている。それが楓の目には珍しく見えた。白粉をつけ、ふっくらとした頬と唇に紅をさしたその姿も、楓は初めて見るものだった。
そうか、あかりちゃんは神社の娘さんだったんだ。
初めてそれを知ったように楓は思った。また、そう思うほど、楓の知るあかりはかた苦しい窮屈なことが大苦手で、いつもまるで栗鼠のように駆け回っている子だったのだ。
それがこうして、嫌がる様子も見せずに立派に務めている姿を見ていると、楓は、知らず己も襟を正したくなるような気持ちになった。
彼女は立派な、一人前なのだ。
「なぁ、楓」
あかりの姿を見守るようにしていると、十三が後ろから声をかけてきた。
「ちゃんと見えとるか?もうちょい前に出たほうがよう見えるで。お嬢らの次もお神楽があるねん、ひかりちゃんと静ちゃんのん。前出ぇへんか?」
楓は十三を省み、少し考えた後、
「いいえ」
そう言って、遠慮した。楓は人よりも頭一つ分背が高い。それが小山のような体格の十三と並べば、きっと後ろに立つ人々は何も見えなくなるだろう。
「そうなんか?ええんか楓、せっかくやのに」
名残惜しそうに十三は言う。
「ええ」
さっぱりと楓は答えた。楓は飛び抜けて目がいい。川に泳ぐ魚も、空高くある鳥も、よくその姿を捉えることが出来る。今も、遠くからでも、あかりの姿を見ることに何の不足もない。
「そうか」
十三は声を落としていた。何故かは楓は分からない。
やがてしずしずと神楽は閉じられ、まだ若い神官が現れて、朗々と祝詞を奏で始める。
「あれ、あかりちゃんにそっくりですねあの人」
楓は言った。猫のように敏捷な目と、ちんまりとした目鼻立ちとが、あかりを写し取ったように瓜二つである。
「ああ、お嬢の兄ちゃんや。道磨ゆうて、お嬢とは年子で生まれはってん。顔はそっくりやけど、ちょっと押しの弱いトコがあって、ようお嬢に言い負かされとるわ。一条家はおなごが強い家系やさかいな、どうしても男は弱ぁなってまうねんなぁ」
楓より二つ三つしか違わないようなその少年は、無事に役を果たし、壇上から去っていった。
次に現れたのは、きららかな髪飾りをかざした二人の娘だった。あかりたちよりも、やや年長のようである。
「あ、あの人もあかりちゃんに…」
神楽舞の巫女の片割れを見て、楓は何げなくそう言った。あかりよりも年上で、さきほどの道磨ほどではないにしても、やはり小作りな顔や口元が、どこかあかりに似ている気がする。
「分かるんか。あの子がお嬢のお姉さんのひかりちゃんや。やっぱ姉ちゃんやからお嬢とよう顔も似とるけど、気立てゆうたらゼンゼンちゃうで。ほんま優しぃておっとりとしとって、お嬢もちょっとはひかりちゃんを見習うてほしい思うわ」
「ああ、あの人が…」
あかりが何度か話していたのを聞いたことがある。幼い頃から身体が弱く、病がちだが、心の優しい姉であるのだと。あかりは随分、姉を慕っていたようだった。
「身体が弱いと聞いたことはありましたが…お元気なんですね」
「うーん、そういうわけでもないねんけどな」
十三はまばらに伸びた顎鬚をさする。
「ひかりちゃんな、ちょっとしたことでもすぐ床に伏せることが多いねん。お嬢みたいに調伏に出かけることもないんや。せやけど、この祭りの時だけは起き上がって、稽古も絶対に休まへん。体が弱ぁても根性据わってるゆうか、健気なんやなぁ」
鼻でもすすりたいようにしみじみと言う十三に、楓は相槌を打った。
薄化粧を施した二人の巫女は、影と形が追いあうように息を合わせて舞っている。よほど練習していることが、楓の目にも感じられた。
体が弱いというひかり。楓は思った。
あの動きの一つ一つが、祖先の名を引き継いでいる。家の名を背負って、ああして立ち動くとはどういう気持ちであるのだろう。なぜこの家に生まれたのかと、考えたことはあるのだろうか…。
青龍としての使命を受け継いだ己自身と思い合わせ、楓は一人、そう思った。
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