〜 記憶野原 〜






<1>

「兄さん」

「ちょいと兄さんったら」

 肩を叩かれて、漸く相手が呼んでいたのが自分のことだと気が付いた。
 振り返ると、つい先程までいた酒屋で同席した女が立っている。
「何か用か?」
「用か?じゃないよ。ホラ、あんた忘れもんだよぅ」
 女はそう言うと、目の位置まで包みを持ち上げて俺に示して見せた。
「…あぁ…」
 忘れたわけではない。
 それは忘れたわけではなかった。
 そう、意図として置いてきたのだ。
 しかしそれでも、敢て届けてくれたのなら受け取らないわけにはいかないだろう。
「すまない…」
 受け取って、自分の手に戻ってきた品を確かめる。
 忘れていたわけではないのだ。
 忘れていたといえば、これを購入した時がまさに忘れていた時だった。


 宿を決めるわけでもなく、ただぶらりと立ち寄った街だった。
 側に大きな街道があるため、人通りも多く、旅人相手の露店も数多く並んでいた。急ぐ旅でも無し、また今となっては目的すら曖昧になってしまった旅だ。
 ただ当てもなくふらふらと、気儘に歩き続けていた。
 歩き続けていれば、いつか道の果てに何らかの答えが見出せるかもしれないと、それだけを思って立ち止まることを許さない旅を続けていた。
 帰る場所はない。
 築く場所もない。
 待つ者もない。
 何もなくなったのだ。
 何を眺めるわけでもなく、移り変わる景色に心を奪われることもなく、ただ擦れ違う人間や通り過ぎる行商人、色とりどりの露店を眺めるフリをしていた。
 そして、これを見つけたのである。
 露店は女物の髪飾りを扱う店で、簡単な屋台に櫛や簪が乱雑に並べられていた。一目で高価なものではないと解る、しかしそれでいて何処か愛らしい、そんな道具を何気なく眺め、見つけたのだ。
 桔梗の華をあしらった、可愛らしい華簪。
 何気なく手に取って、その決して巧い細工とは言えないがそれでも何とも言えない味のある簪を眺めた。
 そして、ふ、と思った。
 妹に、これはよく似合うと。
 そして気がついたときには、店の主人に購入する旨を伝えていた。


 主人が和紙に包んで寄越した簪を懐に仕舞い込み、自分が今まで歩いていた街道へと戻ったときに我に返った。


 妹は、もういないではないか……


 そう、忘れていたといえば、その時だ。
 俺はその瞬間、もう妹が会うことが叶わない存在なのだと言うことをすっかり忘れてしまっていたのだ。
 我に返り、呆然とした。
 軽いはずの懐の簪が、いやに重く感じる。
 眩暈がする。
 そして、俺は静かに空を仰いだ。
 口からは言葉にならないくぐもった音が、微かに漏れた。
「……ああ……」


 陽が暮れて、脇にあった飲み屋へと入った。
 丁度時間帯が時間帯だったためか、店は人でごった返していた。
 店の者が低い腰で「旦那、相席でも構いませんでしょうか?」と聞いてくる。断る理由も、人を避ける理由もないため、承諾すると二人がけの狭い席へと案内された。
 そこには先客で女が一人、もう既にかなりの量の酒を呑んでいた。


 そしてその女が、今こうして再び、あの酒屋に置いてきた簪を俺の元へと届けてくれたというわけだ。


「…縁があるものだな」
 零した言葉に、女はからからと小気味よい笑い声をあげた。
「あらヤだよ、兄さんったら。なんだい?誘ってくれてんのかい?」
 あれだけの量を呑んでいたのだから当然ではあるが、女はかなり酔っているようだ。
「まぁ誘ってくれるのは嬉しいけど、あんたのソレ、簪だろう?
 簪くれてやるような、そんないい人がいるんだったら、あたしなんかにそんな声、かけちゃ駄目だよぅ。あんた、罰あたるよぅ?」
 何処か呂律が回っていない口調でそこまで言うと、再び女はからからと笑った。
 この簪をくれてやる人間。
 再び手の中に戻った包みを眺めて、俺は黙ってそれを目の前の女に突き出した。
「くれてやる」
「はぁ?」
 笑っていた顔をきょとんとさせて、女は小さく首を傾げた。
 そういう仕種が何処か幼く、全然似てはいないのに、自分の義妹を思い出させた。
 女は目の前に差し出された包みと、俺の顔を交互に眺めて、どうしたものかと決めかねている。
 だから俺はもう一度女に告げた。
「くれてやる。貰ってくれ。このままでは貰い手のないものだ。捨てるよりかは、誰かに貰われる方がいいだろう」
 俺の言葉にやっと女は納得したのか、包みを受け取った。
「なんだい?兄さん。振られたのかい?」
「…いや…しかし、そうかもしれん」
 途端に女の眉間に深い皺が寄る。
「そうかい…」
 女は自分の手の中にある包みを眺めて、しげしげと呟いてから顔を上げた。そして力一杯、俺の肩を叩いた。
「決めた!兄さん、家においで。此処からすぐだから。
 今夜は呑もうよぅ」
 まだ呑むのか、とも、見知らぬ女の家に上がり込むつもりはない、とも様々な反論が頭の中を巡ったが、そんなものは女の酔っ払い特有の半分座った目で押し止められてしまう。
「なんだい?もう宿決まってんのかい?」
「いや…そうゆうわけではないが…」
「なら、いいじゃないか!おいで、こっちだよぅ」
 強制的に腕を引っ張られ、俺は苦笑しながらその後を追った。
 誰かに手を引かれることなど、もう何年ぶりだろう?
 幼い妹弟の手を引いて山道を歩いた記憶は、ついこないだのことのようなのに。それが元に戻ることは、もう二度とない。


 女の家の長屋に辿りついた時には、途中で酒を買ったりと寄り道をしていたせいでとっぷりと陽が暮れていた。
 この辺りは住居もまばらで、街の喧騒とも外れている分人通りも少ない。明かりも殆どない。
 虫の声と、薄ぼんやりと見える自分の前を歩く女の着物の柄だけを追って、俺は歩き続けていた。
 俺の旅はこうゆうものなのかもしれない。
 目の前を、ぼんやりと進んでいく微かな物に縋ってただひたすらに後を追いかける。追いかけて、捕まえて、答えが出ることなどないのに。


「散らかってるけど気にしないでおくれね」
 確かに、世辞にも綺麗とは言えない生活臭のこもった板間が灯された明かりの下で浮かび上がった。
 しかし宿とは違い、こうゆう生活の匂いがある場所は随分と久しぶりで、それだけで懐かしさに溺れてしまいそうになる。
 疲れを労う妹や弟の姿が、瞼裏に浮かぶ。
 あれはそんなに昔のことだっただろうか?
「実はさぁ、あたしも男に振られたんだよねぇ。結婚の約束までしてたのにさぁ。嫌だねぇ…どいつもこいつも、皆見る目がないってんだよ。ねぇ?兄さん。
 あんたもいい男だし。あたしだっていい女さ。
 なのに二人とも独り身とくる。
 馬鹿ばかしいったらありゃしないよ。
 これが呑まずにいられるかってんだよ。ねぇ?」
 女は一気にまくしたてると、なみなみと茶碗に今買ってきたばかりの酒を注いで俺の前に音を立てて置いた。
「さぁ、兄さん、のんどくれ」
 正直断りたかったが、それを許してくれる雰囲気ではなかった。
 だから俺は出された酒を一気にあおった。







<続>