〜 星降 〜



…■ 第五話 ■…

 楓は、目を開いた。
 すぐ天井が目に入る。暗い。外に目を向けると、夜だった。淡い星明りが大きな障子に浮かんでいた。
 障子ばかりではなく、部屋も広い。一条の家屋敷、離れの間だった。
 あかりたちに一条家に案内されてから、あかりの父である幻貌に、やれ大切なお客様だそれ夕食だ、と膳を饗され、夜も過ぎると、もう夜遅い、よければお泊まりください、と、幻貌のみならず隠居しているあかりの祖父の道境までが言ってきた。それからはまるで怒涛のような勢いで、この客人用の離れの間に通されたのだ。こんな厚遇を受けるつもりは無かったのだが、あれやこれやと言葉ですかされ、楓は結局、一条家に宿借りすることになったのだった。
 姉には手紙で帰宅が遅れることを知らせた。あかりの母の光明が、あかりのように、あかりよりも鮮やかな手際で式神を打ってくれた。
 おそろしく密度の濃い一日だった。一度目を覚ましてしまうと、あれやこれやと今日あった出来事が瞼の中に甦ってきて、眠れない。
 楓は起き上がる。障子を開くと、澄んだ星空が目に入った。半欠けの月、天の川。織女星と牽牛星。麗しく夜空に薫っている。
 誘われるように楓は外に出た。幼い日から、星空の姿は変わらない。
 庭石に置かれていた履物を拝借し、楓は庭に出た。静まり返った夜の中を、あてどなく逍遥する。
 ふと、人の声が聞こえた気がした。楓は何気なく足を向けた。
 母屋に面した広い廊下に、二人の人影が腰掛けている。近づくと、それはあかりの父母であることが分かった。水を張った桶を前に据え、揃って覗き込んでいる。水面に映る月を観じているのだろう。
 思わず楓は頬を緩めた。二人とも勿論風格を称えた大人なのであるが、そうした姿はまるで子どもが遊んでいるように見え、何となく微笑ましいもののように見えたのだった。
「あら」
 光明が楓に気付いて声を上げた。
「おや、こらとんだところを」
 幻貌も気付き、悪戯を見つけられた子どものように桶を仕舞おうとする。
「あ、いえ、そのままで…」
 邪魔をするつもりはなかった。それでも、世慣れぬ楓はどう言って去ればいいのか分からない。立ち尽くした。
「良かったらご一緒にどうですか?」
 光明が廊下へ上がり、楓のための席を作りながらそう言った。
「え、でも…」
「まあまあ、そう遠慮せんと」
 幻貌も気さくに勧めてくる。促されるまま、楓は桶の近くに腰掛けた。幻貌と光明に挟まれながら、桶を覗く。
 澄んだ水は、風にかすかに揺らめきながら月の姿を宿している。雲はなく、星が隈なく見渡せた。
「世間の人らは六日の夜にするんでしょうけど」
「七夕の日ぃは祭りで忙しいでっさかい、ワシらは毎回こんなもんですわ」
 光明と幻貌が照れるように言った。楓は会釈をする。七夕の夜にこうして、天と地の両方で星月夜を愛でるのは楓も幼時に覚えがあった。
 姉は、どういうふうに七夕の夜を過ごしたろう。
 すぐに思いは、ここにはいない姉に飛ぶ。星が綺麗に見えればいいと、それだけを楓に言った姉。水の揺らめきに誘われるようにそう思った時、
「お姉さん…雪さんは来られなかったのですね」
 楓の心を読んだように光明は言った。楓は顔を上げる。
「あ、はい…」
「残念ですね。小さい頃に一度お会いしたきりですけれど、とても、澄んだ瞳をしていらした。あの瞳の色のせいばかりではない、本当に、透き通った目を。きっと美しい娘さんにおなりでしょう」
「はぁ…」
 光明は優しい瞳をしているが、姉が美しいと言われても、身内である楓には今いちぴんと来なかった。あの金の髪と青い瞳がとても綺麗なのは、分かるのだが。
 ふと、幻貌が膝を正した。
「食事の時は騒がしいてよう落ち着きもできませんでしたが、来てくれはってほんまにありがとうございます。あかりの奴が何も考えんと気楽に手紙出しよったことに…」
 楓は慌てて首を横に振った。幻貌は、楓のことを一条が従うべき四神の一人であるとして、ごく丁重に接する。年長者からそうされるような何ほどのこともしていないのに、楓はいつも恐縮した。
「いいえ、こちらこそお誘いくださってありがとうございました。とても楽しかった」
「そう言うてもらえると助かります。ただ…正直、折がええゆうたら、折のええ話で」
「え?」
 楓が言うと、
「近く、動乱あり…」
 光明が呟くように言う。
「星の気に曇りが見えるのです。近く…また、大きな争乱が起こるのでしょう。人の世にも…我らの上にも」
 予言めいた言葉に驚いて、楓は光明を見た。
「分かるのですか?そんなことが」
 信じられないというわけではなかった。ただ、この人にはそんなことが見えているのかと、そういう思いでそう聞いた。
 光明は頷く。
「楓さん。きっと、四神の長、青龍のあなたにとっては大きな試練になるでしょう」
 怜悧な瞳、凛とした声。
 この人の言葉を軽く受け止めることは出来ない。直感し、楓は深く頷いた。
「それは…」
 息を呑みながら楓は尋ねる。
「いつのことなのでしょうか…?」
 光明はかぶりを振った。
「はっきりとしたことは分かりません…。けれど、今はきっと雌伏の時。ひたすらに時をお待ちなさい。その時が来れば、必ずや運命はあなたを呼び活けに来ます」
「運命…」
 楓は堅く面を強張らせた。光明は言う。
「何かあった時には遠慮なく一条を使ってくださいね。一条はそのために存在している家なのですから。遥か昔から…」
「遥か昔…?」
「はい。魂の四神に対し、血の一条なのです。あなたがた四神が力と心を継承していくように、我ら一条は知識と術を継承していく。四神の方々の影となり、そのありようをお支えするのです。それが創始よりの一条のさだめ」
「そんな」
 楓は言ったが、光明は静かに微笑むばかりだった。さだめを見据え、弁えた者の瞳だった。
 その落ち着いた佇まいと知性に溢れた涼やかな瞳に、ふと楓はこの人になら何でも問うても良いような、そんな気宇を起こした。
「あの」
 呼びかける。光明は楓を見た。
「光明さん…おばさんは、この家で生まれたんですよね」
 あかりから聞いたことがあった、父の幻貌は入り婿で、母の光明こそが、一条の全てを継いだ人であるのだと。楓は、そんな人に尋ねてみたいと思った。
「ええ」
「他に兄弟はいたのですか?」
「いいえ」
「じゃあ、この家の跡継ぎであるということは、その…小さいときから決まっていたんですか」
「ええ」
「では…あの…」
 楓は迷った。今から言おうとしていることを果たして本当に言っても良いものかどうか。あまりに不躾なことにはならないか…そう思ったが、意を決し、尋ねた。
「それを、疑問に思ったりしたことはありましたか…?」
 光明と幻貌は顔を見合わせた。
「あ、すみません、ヘンなことを聞いてしまって…」
 楓は赤面した。しかし、祭りの時のあかりと彼女の姉兄たちを見ていた時に思ったことだった。家のために立ち動くこと。祖先の名前を引き継ぐこと。その家に生まれたから、というだけで背負うには、重いような荷なのではないか…。
 光明の目元が柔らかになった。年若い楓がどうしてそんなことを聞く気になったのか、だいたいの察しはついたのだろう。
「なかった、といえば嘘になります」
 光明は静かに言った。楓は顔を上げる。何かを思い出したように光明は笑った。
「私はね、若い頃はけっこうやんちゃだったのですよ。それこそあかりのような」
「え?」
 楓は面食らう。信じ難かった。目の前の、この水のように静かな人が?あかりには悪いが、そう思った。
「この一条家の外へ出て、もっと広い世界へ飛び出したいと思っていたこともありました…。けれど」
 光明は微笑む。
「けれど、この人と出会って。一緒になって。子どもたちが生まれてきてくれた時に、そんな気持ちはどこかへ飛んでいってしまいましたよ」
 楓は幻貌を見た。幻貌はよそを向いて、口ひげをいじっている。
 眼を閉じ、光明は言った。
「人は、生まれついたようにしか生きられません。星のさだめのまま、生きるしか。けれど生きている私たちの思いは確かに私たちだけのもの…。誰にも決められるものではありません。心だけは自在であるべきものなのですから」
「…楓くん」
 幻貌が口を開いた。
「あなたはまだお若い。色々と思うこともあるや思います。それでも、あなたが慨世様のお子で、青龍の力を継承されたということは変えられない。さぞお辛いことではあると思いますが…」
「…はい」
 楓は頷いた。
「僕はお師さんの子で、青龍で…。だけど、お師さんの子であることを僕は誇りに思っています。それでも以前は迷っていたんですが…。どうして僕が選ばれたのか。四神の長だなんて大役を、どうしてこんなにも頼りない僕なんかがって…」
 光明も、幻貌も、深い瞳で楓の顔を見守っている。
「でも、いくらそのことそのものを考えたって答えなんか出ない。それなら…この、力」
 拳を握り、楓は息を吸い込んだ。微風が楓の周りを渦巻く。光明と幻貌は、目の前の楓の変貌に目を瞠った。見る間に、濃墨のような黒髪が燦とした黄金色に、漆黒の瞳が爛とした真紅に…変わっていく。
「この力で、運命に向かっていくしかない。青龍の務めを果たしていく。…逃げたりなんかせずに」
 呟いてから、楓は顔を上げた。
「その、もう自分で分かってるみたいなことを聞くような真似して、すみません。ただ、その…」
 楓は口ごもる。
「誰かに聞いてみたかった…話したかった?」
 引き取るように光明が言う。楓は頬を赤くさせ、少女のように俯いた。
「…はい」
 柔らかに光明は微笑む。
「…ありがとうね」
「え?」
 楓は顔を上げた。
「聞いてくれはって…話してくれはって」
 楓は瞬きをする。
「楓さん、あなたなら大丈夫ですよ。あなたは見事に朱雀の暴走を御止めになった。運命から逃げず。大丈夫ですよ、あなたなら…。何も怖れないで」
 安心させるように微笑む光明の笑顔が、自分に向けられるいたわりの眼差しが面映く感じられ、楓は意味も無く己の頬をかいた。強い含羞を隠し切れずに。
「…けれど…」
 少年らしいその初々しい表情を見つめ、光明が呟いた。
「ねえ」
 幻貌を省みる。幻貌は深く頷いた。
「のう。うちの道磨ものう、楓くんぐらいにやなんて言わんが…」
 しみじみと言う。
「?」
 楓は首を傾げた。光明は笑う。
「…ほんまに、大きくなりはったねぇ。あの小さかった男の子が、こんなに立派になって…」
 ぼっと、楓は耳まで赤くさせた。幻貌も光明も、そよ風のように微笑んだ。





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