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 鳥が、啼いた。涼やかな風が、木々の間を渡っていく。緑の香りが強い。
 幾つもの山、谷を抜け、楓は山道を歩き続けている。一条家からの家路だった。
 手には風呂敷包みを握っていた。一条家の皆が手みやげに渡してくれたものだ。
 「また遊びに来てな!今度はきっと雪はんと一緒に!」
 別れ際、あかりはそう言ってくれた。
 短い逗留ではあったが、楽しかったと楓は思った。町に生きる人々の姿、一条家の人の情に触れ、心にはっきりと宿ったものがあった。
 いつもより早足で歩いている。早く帰って、姉に色んなことを話したかった。
 我が家のもとに辿りつく。屋敷へと続く石段を踏み出す。
 「あ」
 楓は呟いた。門の前で箒を使っている人がいる。金色の髪が輝いている。
 「姉さん!」
 叫ぶや、駆け出した。一息に、長い石段を登り切る。
 「楓」
 雪は目を丸くした。
 「おかえりなさい」
 「ただいま。遅くなってごめん」
 「いいえ。手紙読んだわ。すごく楽しかったみたいね」
 「うん。とても。すごく楽しかったよ。おみやげいっぱいもらっちゃった…」
 「まあ」
 楓の手からずっしりとした包みを受け取り、雪は花のように笑った。
 「あ、待ってて。長旅で疲れたでしょ?お茶入れてくるわね」
 箒を手に持ち、門を潜っていく。
 楓も同じく門を潜り、縁側に荷を置いて腰掛けた。
 後ろ手に両手をついて、足を伸ばす。山の姿が目に入った。慨世のもとに引き取られてきてから毎日眺め暮らした、懐かしい姿。
 雪が盆に茶を載せてくる。微笑を湛えた穏やかな表情だった。
 「はい」
 言って、楓の前に茶を置く。楓はふと、その様子が気になった。盆から自分の湯飲みを取って腰掛けるその仕草もどこか軽やかで、弾んでいるように見えた。
 「姉さん、何かいいことあった?」
 楓は率直に尋ねた。
 「え?」
 雪は瞬きをする。
 「なんだか楽しそうだから…何か楽しい夢でも見たの?」
 楓の言葉に雪は一瞬動きを止め、静かに頷いた。
 「うん…そうね。夢……。夢、だったわ。とても、とても幸せな…」
 眼を伏せて、雪は呟く。
 「…ふぅん」
 深くは気にせず、楓は湯飲みに口をつけた。茶の佳い香りが鼻をくすぐる。
 ほうっと、息を深く吐き出した。
 そうだ。
 楓は思い出した。
 あかりちゃんのところのなべみちゃんが、守矢を見たらしいということ…話したほうがいいんだろうか?
 兄の行方を姉は知りたいはずだった。話したほうがいいはずだ。
 楓はちらりと雪を見た。雪は湯飲みを持ち、どこか遠くに視線を放っている。
 「姉さん、あのさ…」
 楓は、口を開いた。雪が顔を向ける。澄み切った青い瞳とぶつかる。
 「…いや、なんでもないよ」
 楓は言葉を飲み込んだ。
 「? どうしたの?」
 「なんでもないってば」
 楓は言葉を濁した。何があったのか知らないが、機嫌よくしている姉の様子を見ていると、何となく話すのは躊躇われるような気がした。兄の居所が分かったわけではないのに、見かけたらしい、と言っただけでは、姉の心を乱してしまうかもしれないと、思ったのだった。
 兄がどこにいるのか。楓は知りたいことではあった。だが…。
 また、会える。きっと。
 楓はそう思う。予感のように。
 湯飲みを静かに置いた。
 「…姉さん、僕…頑張るよ」
 ゆっくりと楓は呟いた。
 「まだ、僕に一体何が出来るのかは分からないけど…まだ地獄門は開いたままだけど…、でもその時が来たら、僕は青龍として、お師さんの子として、精一杯頑張る」
 雪は瞳をいっぱいに見開き、楓の横顔を穴が開くほど見つめた。
 白い頬を、大粒の涙が転げ落ちていく。
 楓は仰天した。
 「え。なっ、何で泣くんだよ!? 姉さん!」
 「ごめんなさい、ごめんなさい…楓」
 雪は泣き笑いの顔になりながら、しきりに手の甲で涙を拭う。
 「嬉しくて…」
 「やだなぁ、嬉しいんだったら何も泣かなくてもいいじゃないか」
 「嬉しくても涙は出るのよ。お生憎さま」
 小さく笑う雪に、楓は頬を膨らませた。
 そのまま空を見上げた。真昼の今、見える星の影は無い。
 『試練となるでしょう』
 あかりの母、光明に言われた言葉を思い出す。
 この先に何が待っているのか知れない。けれども、開かれた地獄門は必ず閉じなければならない。人々の営み、知る人の暮らし。親しい人の笑顔を、守りたい。楓はそう思う。
 「僕は…負けない。何があろうと、立ち向かってみせるよ」
 雪は変わらず、涙を零しながら頷いた。楓は空を見つめた。
 美しい空、此の世の姿を見つめ続けた青い空が、そこにある。
 
 
 
 〜 終 〜
 
 
 
 
 
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